流量が多いのは今だけ! 何万年もの間、バックし続ける数鹿流ヶ滝(すがるがたき)の謎とは?
実は滝は後ろに進む(バックする)─。熊本・阿蘇の名瀑「数鹿流ヶ滝」は、そんな地球の壮大な営みを体現する滝です。熊本地震の記憶を伝える震災遺構のすぐそばで、14万年の時を経て今の姿を見せています。さらにこの絶景、2027年までの期間限定なんです! この夏、涼しさを感じる滝を見に出かけよう!

目次
上の写真の左上に見えるのが、2016年4月16日の「平成28年熊本地震」本震によって起きた大規模山体崩落で、「数鹿流崩(すがるくず)れ」と名付けられました。
国道57号線をはさんで手前の石碑が、『数鹿流崩之碑(すがるくずれのひ)』。新しい地図記号“自然災害伝承碑”として、地図上で示されるスポットです。
『数鹿流崩之碑展望所』の広い駐車場からは、熊本地震で崩落した、旧阿蘇大橋の橋桁を見ることもできます。
「数鹿流崩」の由来となった名瀑「数鹿流ヶ滝」
「数鹿流崩」という名前の由来は、近くにある「数鹿流ヶ滝(すがるがたき)」。
『日本の滝百選』にも選ばれ、地震前の説明板には「落差60m」と書いてありました。
以前は下の写真のように、滝つぼがのぞき込めたんですけどね。
熊本地震から5年後の2021年10月に、新しく『数鹿流ヶ滝展望所』が再整備されました。
駐車場から550m、ウォーキングしてみましょう。
あっ、数鹿流崩の下を、JR豊肥線の赤い列車が通りました!
滝が見える展望所までは遊歩道が整備され、可憐な野草が迎えてくれます。
「数鹿流崩」の真下あたりに来ました。
真向かいを見ると、旧阿蘇大橋。
震災遺構として、あえて橋桁を取り壊さず、震災当時のまま残しています。
ちょっと引いて撮影すると、左から来た電線がブチッと切れている感じ。
地震の前は、この右まで電線が通じていたのでしょうか。
滝までの遊歩道はスロープも設置されています。
紅葉している植物などを楽しみつつ、徒歩7~8分で2つの滝が見える地点に着きました。
左の大きな滝が数鹿流ヶ滝で、右は白糸の滝(阿蘇郡西原村の白糸の滝公園とは別です!)。
阿蘇カルデラの外輪山の切れ目にあたる位置ですね。
「数鹿流」の名の由来とは? 2つの説を紹介
「数鹿流(すがる)」の名の由来は、かつて「数多くの鹿が流れていった」という逸話があるから。
そのまんまやないかい!
ではなぜ、そんなに多くの鹿が落ちたのでしょう。
2つの説があります。
地震前の説明板に書かれていたのは、阿蘇の開拓神である健磐龍命(タケイワタツノミコト)にまつわる神話でした。
阿蘇大明神とも呼ばれ、阿蘇神社に祀られている神様です。
カルデラ(火山活動によってできた巨大なくぼ地)に水がたまって巨大な湖があった時代、神様は「水を流して開墾し、田畑にすれば民の食糧が確保できる」と、外輪山をキック!
これが、「蹴破(けやぶ)り神話」です。その時、滝ができて数頭の鹿が流されたから「数鹿流(すがる)」って……。
誰か見てたんかーーい!?
そして2番目の説は、ちゃんと記録がある鎌倉時代初期のこと。
阿蘇神社の大宮司でもある阿蘇家は、古くからこの地を治めて来た豪族です。その阿蘇家が1191年(建久2年)、「下野狩」(しもののかり)と呼ばれる巻狩を行いました。
上の精密に描かれた絵から、当時の情景がしのばれます。赤い傘のもと、馬上から狩を見物しておられるのが、きっと阿蘇家当主ですね。「猪を捕まえました!」との報告を受けている場面でしょう。
この翌年の1192年(建久3年)には源頼朝が征夷大将軍になったという、そんな時代です(今の教科書は「1192イイクニ作ろう鎌倉幕府」ではなく、「1185イイハコ作ろう」だとか)。
さらに翌年の1193 年(建久4年)に、頼朝は現在の静岡県で大規模な「富士巻狩(ふじのまきがり)」を行うのですが、それの手本となったのが、この阿蘇の「下野狩」だと言われています。
絵の下部には、逃げ惑う鹿を弓で狙っているのが描かれています。巻狩で追い詰められた数多くの鹿たちが滝つぼに落ち、流されて行ったんでしょうね。
驚きの事実! 滝は年月をかけて「バック」する
実は滝って、バックするのをご存じですか?
水流が激しいと、滝の落ちるところがどんどん岩を削るので後退していくものなのです。
数鹿流ヶ滝が注ぐ黒川は、滝の下流約1.7km地点で一級河川の白川と合流し、熊本市内に向かって流れていきます。
阿蘇火山の巨大カルデラ噴火は、27万年前・約14万年前・約13万年前・約9万年前と4回起きていると言われていますが、世界最大級の阿蘇カルデラができたのは約9万年前の巨大噴火(Aso-4)。
約14万年前のAso-2の頃には、現在の白川と黒川の合流点より約2.5kmも下流に、滝が存在したことがわかっています。
つまり数鹿流ヶ滝は、14万年間で約4.2kmも溶岩をガンガン削って、令和の今、その姿を私たちに見せてくれているのです。
黒川は、中央火口丘郡の北側「阿蘇谷」(阿蘇市など)を流れています。南側の「南郷谷」(南阿蘇村など)を流れる白川と比べると平野が多く、黒川の方が流域面積が広いのです。
全国平均の2倍の降水量がある阿蘇。大量の水を集めた黒川がカルデラの切れ目である立野火口瀬を通る時には、急流になります。それが赤瀬溶岩を削るのです。
地震の前と比べて、落差が小さくなったような気が……。見る角度が違うからかもしれません。
もし狩で流されたのがイノシシ🐗だったら、「数猪流ヶ滝(すちょるがたき)」?
そして山体崩落は「すちょるくずれ」に。
言いにくい……。
鹿🦌のおかげで、すがすがしい滝の名になりました。
【2027年まで】数鹿流ヶ滝の勇壮な姿は今だけしか見られない
この「数鹿流崩」は震災後、いかに人間が危険な目に遭うことなく、機械を活用して復旧できるかに挑戦した場所なのです。
下の写真の左は熊本地震直後で、わずか1年7か月後の2017年11月20日(写真右)に竣工。
その無人化施工技術が高く評価され、第1回日建連表彰土木賞を受賞しています。
豊かな滝の水を活用して行われていた水力発電は、現在復旧中です。
2027年には九州電力さんによって取水が再開されるため、今よりも滝の水量がぐーんと減るそうです。
数鹿流ヶ滝の勇壮な姿を眺めるなら、今!
『数鹿流崩之碑展望所』からは、下流の新阿蘇大橋も見えます。
『数鹿流崩之碑展望所』にはトイレなどありませんが、新阿蘇大橋展望所『ヨ・ミュール』ではトイレ休憩もでき、アイスクリームショップ『kibaco』もありますよ。
リボンソフトクリーム600円が大人気!
力強く流れる滝の姿を目に焼き付け、復興を遂げた大地を訪れる。そんな今だけの特別な阿蘇の旅へ、ぜひ出かけてみませんか。
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