智将・明智光秀を主役とした2020年大河ドラマでも話題!? 意外と知られていない熊本にゆかりのある「細川ガラシャ(光秀の娘)」が眠る細川家菩提寺「泰勝寺跡」は隠れた観光スポット!?
「細川ガラシャ」の壮絶な人生
細川ガラシャは、1563年に明智光秀の三女として生まれ、名は「明智たま」。
明智光秀の娘としてすくすく育ったたまは、16歳の頃、織田信長の命により、細川藤孝の長男の「細川忠興」のもとへ嫁ぐことになります。
翌年には長女、その翌年には長男も生まれ、細川家入り後の人生も順調のはずが、、、日本の歴史上の大事件によってその流れは狂うのでした。
1582年6月2日に、父・明智光秀が本能寺に滞在の織田信長を襲撃、死に追いやった「本能寺の変」です。
たまは、20歳にして彼女は謀反人の娘となってしまった為、細川忠興はたまを丹後の国の味土野(みどの)へ幽閉。2年ほど経ったあと、天下人となった豊臣秀吉の許しにより、たまは細川家へ戻ります。ただ、その後も細川忠興のもと、軟禁生活を過ごすことになるのでした。
そんな生活を過ごしている際に、キリシタン大名の高山右近の話しを細川忠興から聞いたたまは、キリスト教に興味を持ちます。待女・清原いと(のち、清原マリア)と屋敷を抜け出して教会に行き、家臣を通じて司祭と連絡を取り合い、キリスト教への理解を深め、救いを求めます。1587年、洗礼を受けた、その洗礼名が「ガラシャ」だったのです。
「ガラシャ」とは、ラテン語のGratia(グラティア)に由来し、「恩寵」という意味があることから、彼女の本名「たま(玉/珠)」の宝石や貴重なものという意味から、その名を意訳して付けられたとも言われています。
その後、関ヶ原の戦い(1600年)の直前、細川忠興は徳川側に合流するため屋敷をあとにします。そのころ豊臣側の石田三成は、たま(ガラシャ)を人質として求めたのです。しかし細川家はこれを拒否。豊臣側の石田三成軍勢が、屋敷に攻め入るという強硬策に出ようとしたとき、彼女は死を選んだのでした。
肥後熊本藩の初代藩主「細川忠利」と細川家菩提寺「泰勝院」
晩年の細川忠興は、元和6年(1620)に三男・忠利に家督を譲り隠居。
のち細川忠利は、肥後熊本藩の細川家初代藩主(細川家三代当主)となり、1637年に泰勝院(泰勝院とは細川家初代当主・藤孝(幽斎)の法名)として建立。四代当主・光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き泰勝寺と改めました。
ここには、細川初代当主・藤孝夫妻と二代・忠興、その妻ガラシャの墓である「四つ御廟(ごびょう)」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。
いざ、泰勝寺跡へ!
熊本市内中心部から車で約15分ほどで到着。住宅街を抜けていくので、少し心配になりますが、山の中腹にあります。
道路に面して「立田自然公園(泰勝寺跡)」の看板が目印です。
料金所支払の入口には、「立田自然公園(泰勝寺跡)」の看板があります。
「立田自然公園(泰勝寺跡)」の入場料の看板。意外とリーズナブルかもしれません!?
「立田自然公園(細川家墓地)」の看板、熊本県指定史跡だそうです。
立田自然公園内をぶらぶら歩いていくと「ガラシャ夫人の墓」の看板があります。
公園内は、木漏れ日も綺麗で、ちょっとしたお散歩コースとしてもおすすめです。
入口から徒歩5分ほどで御廟(お墓)に到着。入口には四つの御廟についての説明があります。入って一番左端にあるのが「細川ガラシャ」の御廟(お墓)です。
ガラシャのお墓の写真です。お参りに来られている方がいるのか、お菓子などが備えられています
お墓の横にはガラシャが使ったという手水鉢(ちょうずばち)があります。
この手水鉢は、ガラシャが命を絶つ直前、手水鉢を水鏡にして最後の身支度を整えたと伝えられています。
そのほか、立田自然公園内は、杉木立に囲まれた「苔園」もあり、天気の良い日は、杉木の木漏れ陽の柔らかい日差しが苔の緑の映え、実に美しいさまで訪れた人を魅了します。
また、公園内には、武人でありながら茶道にかけては国内随一といわれた細川忠興の原図に基づいて復元された茶室「仰松軒(こうしょうけん)」があります。茶室「仰松軒」にある手水鉢は、京都で細川忠興が愛用したもので、豊臣秀吉や千利休も使用し、歴代の細川藩主は、この手水鉢を参勤交代の道中にも持参したと伝えられています。
(※仰松軒(お茶室)の見学は、少し離れた柵越しからの見学となります)
泰勝寺跡(たいしょうじあと)
熊本県熊本市中央区黒髪4-610 (https://goo.gl/maps/W8zx5KNiTvK2)
TEL:096-344-6753(立田自然公園)
細川家と食文化「からし蓮根」
熊本名物として有名な「からし蓮根」も、実は細川家ゆかりの食べ物。
病弱だった藩主忠利公の為に考案されたといわれています。
その作り方は、蓮根の穴に特製の辛子味噌を詰め、豆粉を混ぜた小麦粉を玉子でといた衣をつけて油で揚げるという手の込んだもの。三百七十余年前の料理とは思えない栄養満点の食べ物です。また、輪切りにした蓮根の見た目が細川家の家紋の「九曜」の紋に似ている事もあり、忠利公はからし蓮根の製造方法を秘伝料理とし、明治維新まで門外不出だったとか。まさに肥後の国・熊本ならではの食文化が息づいています。
ぜひ、熊本の地でぜひお召し上がりください♪