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【肥後遊記】第拾玖譚 『肥後のよかとこ、あんなとこ』昔『肥後のよかとこ、あんなとこ』youは何しに肥後の国へ? その弐(阿蘇市)

肥後のふしぎを求める妖怪ひ~が、地理学者・古川古松軒の足跡をたどり熊本を巡ります!名君・細川重賢の治世の裏側や、当時のユニークな道具、グルメなど、旅日記に記されたリアルな熊本の歴史をご紹介します。

目次

肥後(熊本)のふしぎなもんの仲間を求めて、津々浦々を旅している妖怪ひ~でございます。

 

今回も、熊本県を訪れた江戸時代後期の地理学者・古川古松軒ふるかわこしょうけんの足跡をたどって、妖怪ひ~が県内各地をぶらぶらと旅します!

 

古川古松軒って、どんな人?という方は、前回の記事で簡単に紹介しているので、是非ご覧ください!

Topic1:古川古松軒の訪れた時の熊本藩の治世

Point① 肥後の鳳凰、細川 重賢の治世

さて、人吉球磨を訪れた古川は、その足で熊本城下や阿蘇地域にも赴いています。

 

この時期の熊本は、熊本藩第6代藩主として財政再建や藩政改革(宝暦の改革)を断行し、「肥後の鳳凰ひごのほうおう」と称された名君、細川 重賢ほそかわ しげかたの時代でした。

 

この重賢は、熊本藩第4代藩主 宣紀のぶのりの第13子(五男)で家督を継げる立場ではありませんでした。しかし、延享4(1747)年に熊本藩5代藩主で兄である宗孝が、江戸城で旗本・板倉勝該かつかねに人違いにより斬殺されたため、家督を相続することとなった人物です。

 

この重賢が藩主となった熊本藩の財政は、参勤の費用にも窮乏し三井高房たかふさの『町人考見録』(享保十三年)にも「わけて細川家は前々より不埒なる御家柄にて、度々町人の借銀斷有之」と書かれ町人からも借金が断られる等、かなりの財政難でした。

 

そこで、重賢は堀平太左衛門勝名ほりへいたざえもんかつな大奉行おおぶぎょうに抜擢し行政改革を行う一方で、藩校・時習館じしゅうかんや医学寮・再春館さいしゅんかん、薬園・蕃滋園ばんじえんの設立、はぜ・繭の統制等を行い熊本藩の大改革を実行していました。

 

しかし、よっぽど江戸や上方(京都や大阪)の人々にも熊本藩の財政難が浸透していたのか、サビ止めには「細川」と唱えれば効くといわれたり、「新しき鍋釜には細川と申す文字を書き付ければ金気は出ず(※1)」と言われたり散々なものでした。

 

※1 江戸時代、新品の鉄製の鍋や釜は、そのまま使うと鉄臭さがあったため何度も湯炊き等をして「金気抜き」をしていました。そのような中で、新品の鍋等の底に「細川」と書いたら直ぐに金気が無くなると洒落で言われたのは、細川家が貧乏で金気が無いため細川家と書けばそれが金気を吸い取るだろうという発想からきています。

細川重賢の肖像

「細川 重賢」『肖像集』所蔵:国立国会図書館デジタルコレクション

Point② 古川古松軒の見た熊本藩の治世

古川古松軒は、他国の評判で細川 重賢が賢君であり堀平太左衛門勝名が良臣と聞き及んでいたようですが、実際の阿蘇の様子を見聞きした結果、前述の評判に対して疑問を持ったようです。

 

当時の阿蘇地域は凶作の年が続き餓死者が続出しているような状態であり、その現状を見た古川はおそらく地元の住民に阿蘇地域で餓死者が出ているのにお救いにならなかったのはどういう事だ、細川 重賢が賢君であるということは虚説ではないかと尋ねてみたところ、住民は乞食(原文ママ)をしようと熊本に老若問わず連れ出して道々で倒れ亡くなるものもいるとのことでした。

 

これを受けて、古川は仁政は無いものと考え、身分の低い私がこのように高貴な方を悪く言うのは恐れ多いことといえども、事実を聞いて記録しないのは権力や高貴な立場の者に対して媚び諂うことと似ているので僅かに記録しておこうと考えて記載しています。

 

ただし、この時の日本は享保の大飢饉(1732年)や宝暦の飢饉(1755年〜1756年)がおこっており、熊本も多少なりとも被害が出ていたことと熊本藩の財政状況を考えると藩の隅々までカバーするのは難しいところだったのではないかと思います。

Topic2:古川古松軒の見た熊本の道具や食べ物

古川は、熊本を含む西日本を旅する中で、道中の珍しい道具や食べ物等を文字だけではなく絵でも表現していました。

 

なかでも、道具については「目慣れぬ器多し」といい、やや曲がった短い柄が刃と鋭角についた形の鍬(肥後鍬)や牛にひかせる犂の形状や各パーツの寸法等を記録しています。また、使い方も記録しており左1枚目の鍬は、腰を屈めて使うといったことを記録しています。

 

そのほか、料理についても記録しており、小麦粉を四文取の餅(どれくらいの大きさなんでしょ?)の大きさに伸ばし、藁を敷いた鍋で蒸して食べていたようです(右から2枚目)。調理の仕方は、下のグルグル模様のように伸ばしたものを蛇のとぐろを巻くようにしていたのかもしれません。

西遊雑記に描かれた道具や食べ物

【左から】「鍬」「鍬(ひょうたん鍬)」「犂」「小麦料理」『西遊雑記』(国文学研究資料館蔵)

Topic3:古川古松軒の見て描いた熊本の各地

古川は、熊本を含む西日本を旅する中で、道中の景勝地や名所等を絵図に記しています。熊本では阿蘇や人吉球磨地域を描いたものや熊本城や阿蘇山を描いたものまで様々です。熊本城については、絵図以外にも文章でもその記録を残しており、高い石垣や各櫓を見た古川は熊本城を「第一要害堅固にして大城なり」と称しています。

 

そのほか、意外にも熊本の景勝地として有名な水前寺成趣園については、描いていません。これは、古川の記載によれば、宿泊した御庭奉行のお宅で成趣園の見学を願い出たところ他国者は御法度ということで見ることができなかったためです(門前まで行ったが、見ることが出来ず残念とも記録しています)。ただし、御庭奉行の田中氏から鯉鮒が多数いるということや様々な水前寺成趣園に関する物語を聞いていたようで、富士の芝山より三保の松原のような風景があることも聞いていたようです。

肥後阿蘇山の図

「肥後阿蘇山の図」『西遊雑記』(国文学研究資料館蔵)

 

熊本城略図

「熊本城略図」『西遊雑記』(国文学研究資料館蔵)

 

人吉球磨の図

「人吉球磨の図」『西遊雑記』(国文学研究資料館蔵)

 

阿蘇の図

「阿蘇の図」『西遊雑記』(国文学研究資料館蔵)

 


【NEXT】

 

【肥後遊記】第弐拾譚 『肥後のよかとこ、あんなとこ』南無地の大仏さん、あげてくださいお賽銭~。宇土の地蔵祭りと造り物(宇土市)

 


おまけ:嘘?本当?島津家も恐れた熊本城内の旧街道(薩摩街道)

熊本城内の旧街道(薩摩街道)は、江戸時代初期に薩摩藩(島津家)が参勤交代で利用した道で、古川がこの城内の道を見て左右が高石垣で前後が櫓門があり、まるで箱の中を行くようなものだという感想を持つ場所でした。

 

また、古川はおそらく地元の住民から薩州侯(島津家のお殿様)が城内のこの道を通過するにあたり周囲を見渡し、「大名の通るところではない。このような場所を通行させるのは心無き事だ」と怒られたという話を聞いたが、すべて虚説だと思いながら高貴な人が通る道ではなく、まるで鳥を捕らえる籠のような場所だと記録しています。

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妖怪ひー

肥前、豊後、流れるままに肥後の地に住み着いた県外人。 気の向くまま、肥後の面白い事を求め、津々浦々を歩いて巡る日々を過ごしています。 主に肥後の歴史、文化や妖怪談などを中心に発信します。

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