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おるとくまもと編集部

日本人初でオリンピックに出場した、いま話題の日本マラソンの父・熊本県出身「金栗四三(かなくりしそう)」をご紹介します!

日本マラソンの父「金栗四三(かなくりしそう)」はご存知ですか?!

 

決して一般的に知名度の高い人物ではないので、一部のスポーツファンを覗いては「え? 誰それ?」という感想を抱いた方が多かったのではないでしょうか?

 

ところが、この一見地味な金栗四三は、実は日本のスポーツ躍進を支えた偉大な人物。日本人として初のオリンピック出場を果たし、新春のお茶の間を熱狂させる箱根駅伝の創始者でもあるんです。

 

2019年、彼が生まれ育った熊本では、県を挙げての「金栗四三まつり」!

 

JR熊本駅の新幹線口では、くまモンとともに乗客を出迎えてくれます。

 

 

2020年の東京五輪を目前に、振り返ってみたい近代日本スポーツの黎明期とその立役者のひとり、金栗四三。そこにあるのは興味深いエピソードの数々でした。

 

いま話題の金栗四三の生涯に迫ってみます!

 

日本マラソンの父へと育てたのは、往復12キロの通学路!

金栗四三は明治24年(1891年)8月20日、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)で誕生しました。父の信彦は虚弱体質で、金栗四三の誕生前に家業だった酒造業を辞めています。

 

金栗四三が生まれ育ったのは、自然豊かな山里の村。小学校は片道6キロ先と遠方にあり、当時は送迎バスや自家用車も普及していません。子どもたちは、冬は「藁草履(わらぞうり)」を履き、夏は裸足で、当然のように往復12キロの道のりを歩いて通学していました。

 

父と同じく虚弱体質で、運動にはまるで自信がなかった金栗四三でしたが、いざ走り出すと誰よりも早かったと伝えられています。

 

ちなみに、子どもの頃から成績優秀だった金栗四三。吉地尋常小学校、玉名北高等小学校、玉名中学校へと順調に進学、成績も学年で1、2位だったそうです。

 

上級校への進学を勧められた金栗四三は海軍兵学校を受験しますが、角膜炎のため不合格。滑り止めで受験した東京高等師範学校(現在の筑波大学)に合格し「立派な教師になってみないか」という兄のアドバイスに従って進学することに決めました。

 

 

人生を変えた嘉納治五郎との出会い。

 

東京高等師範学校に入学した金栗四三は、ここで自分の人生を変える生涯の師と出会います。その名は嘉納治五郎。“柔道の父”と呼ばれ、日本の教育界・スポーツ界にも多くの影響を与えた人物です。

 

金栗四三が入学した当時、嘉納治五郎は東京高等師範学校の学校長をしていました。勉学だけでなくスポーツを推奨し、学校でも年に2回のマラソン大会を開催していたそうです。

 

入学直後の春の大会に出場した金栗四三は、25位でゴール。雪辱を期した秋の大会では3位入賞し、嘉納治五郎は「1年生としては抜群の健闘」と激賞。進級とともに熱心に入部を勧誘してくれた徒歩部(陸上部)に入部しました。

 

徒歩部に入った金栗は、人の倍練習することを自らに課し、早朝から練習に励みました。そこで鍛えたスタミナのおかげか、校内のみならず国内では無敵の長距離ランナーへと成長します。

 

いま話題の金栗四三の「日本マラソンの父」への道は、ここから始まったのでした。

 

 

日本人初のオリンピック出場を目指して。

嘉納治五郎は、アジア初のIOC委員(国際オリンピック委員会)に選出された人物です。1912年の第5回ストックホルムオリンピックへの日本の参加を求められ、関係機関に働きかけますが、政府の腰は重く文部省はこれを固辞。仕方なく東京都内の大学有志を招集して大日本体育協会(のちのJOC、日本オリンピック委員会)を設立します。初代会長に就任した嘉納は出場選手を選出すべく、何とかオリンピック予選会の開催へと漕ぎ着けました。

 

この予選会に出場した金栗四三は、当時の日本には存在しなかったランニングシューズの代わりに足袋を履き出場。途中で足袋が破れて素足になるアクシデントがありながらも、当時のマラソン世界記録を27分も上回る記録で優勝して世界を驚かせます。

 

「長距離の選手として五輪に出場してもらいたい」

 

非常に栄誉ある申し出ですが、金栗四三は断腸の思いで断ります。国が援助を断った渡航費および5ヶ月にも及ぶ滞在費、長期に亘る欠席や、卒業のこと…。問題は山積みでした。それでも嘉納は、熱心に説得に当たりました。

 

「金栗君、日本スポーツ界のためにも“黎明の鐘”となってくれ!」

 

この言葉に感銘を受け、心が動かされた金栗四三。やるだけやってみよう、後進の力にもなれたら…と決意を固めました。しかし、資金が足りないことには変わりません。金栗四三は苦しい思いで、郷里に援助を求めることに。

 

金栗四三は父の亡きあと、すべての面で支えてくれている兄・金栗実次(かなくりさねつぐ)に渡航費用1,800円(約500万円)の用立てを依頼する手紙を書きました。実次は四三が代表になったことを非常に喜び、渡航費用は田畑を売っても用意すると約束してくれたそうです。さらに、郷里の有志が後援会を発足。1,500円もの支援をしてくれたのです。

 

また、予選途中で破れた足袋の対策を近所の足袋店『播磨屋足袋店』の職人・黒坂辛作(くろさかしんさく)に相談したところ、足袋の底を3重に重ねて厚くする「マラソン足袋」の開発に成功します。この逸話は、池井戸潤著の小説「陸王」のモデルにもなりました。

 

 

はじめてのオリンピック出場は、苦い思い出に。

 

明治45年(1912年)5月16日に日本を出発、17日間かけてストックホルムへ到着した日本人出場者である金栗四三と三島弥彦(みしまやひこ)。船とシベリア鉄道を使っての、想像を絶する長旅でした。

 

ストックホルムの宿舎や食事、北欧独特の白夜に外国人とのコミュニケーション。現地での生活はストレスが多く、コーチとして同行していた大森兵蔵(おおもりひょうぞう)は肺結核が悪化。金栗四三と三島弥彦はコーチなしでの練習を余儀なくされるなか、いよいよ大会が開幕しました。

 

三島弥彦は100m、200m走の予選に出場しますが、自己新記録をマークしても最下位となり、世界との差は歴然でした。

 

また、マラソンの参加選手は68名。アジア地区からの出場は金栗四三だけでした。外国人選手との対戦経験がなかった金栗四三は、彼らがスタート直後からハイペースで飛ばすのに巻き込まれ、オーバーペースに。自分のレースができないながら、健闘を続けた金栗四三は17位まで順位を上げ、折り返し地点を通過しますが…。

 

舗装された硬い路面、白夜による寝不足、気温35度を越える猛暑に満身創痍でフラフラとなった金栗四三はコースを外れてしまい森の中で昏倒、そのまま意識を失ってしまいます。

 

ストックホルム大会のマラソンは34名が棄権、一人が死亡する過酷なサバイバルレースとなり、意識不明の金栗四三は、スウェーデン人の農夫エルジエン・ペトレに救護され、手厚い看病を受けたそうです。

 

金栗四三は大会本部に棄権届けを提出し忘れたため、記録は「棄権」ではなく「行方不明」扱いとなりました。

 

消えたベルリンの夢と箱根駅伝の誕生。

 

東京高等師範学校へ戻った金栗四三は、4年後のベルリン大会を目指して練習を開始。卒業後は愛知一中への赴任が決まりますが、金栗四三はベルリンを目指すために師範学校の研究科への進学を希望、これが認められて東京に残りました。

 

師範学校を卒業すると熊本へ帰省、兄の実次が勧めた同石貫村の医師の娘・春野スヤと結婚しています。新妻・スヤを熊本に残して東京に戻った金栗四三は、ストックホルムの反省を糧にベルリンに向けての練習を再開。各地の学校へ出向いて指導を行い、マラソンの普及に勤めます。

 

ところが、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発、金栗四三は26歳という年齢的にも能力的にも脂の乗った競技適齢期を戦争によって奪われてしまうことに…。とはいえ、ここで挫ける金栗四三ではありません。

 

東京高等師範学校研究科を卒業後は、神奈川師範学校に赴任。兵役はオリンピックでの活躍こそが日本国のためと判断されて免除となったため、金栗四三はより一層マラソンの普及、強化に力を注ぎました。

 

「東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」や、高地トレーニングを兼ねた富士登山マラソンの復活、朝日新聞との提携で実現した下関~東京1200㎞走破、日光~東京130㎞マラソンを次々と開催し、マラソン選手の発掘、育成を強化していく金栗四三。

 

大正8年(1919年)には、サンフランシスコ~ニューヨーク間を走破するアメリカ横断駅伝の構想が生まれます。この話を新聞社に持ち込むと協賛を取り付けることができ、国内でアメリカ横断駅伝の予選会を行うことになりました。これが現在の箱根駅伝の前身です。

 

 

 

三度オリンピックの舞台へ!

 

アメリカ横断駅伝の予選会には東京高等師範、早稲田、慶応、明治の4校が名乗りをあげ、第1回箱根駅伝は四大校駅伝競走の名で開催。大正9年(1920年)2月14日午後1時にスタートした第1回大会は東京高等師範学校が優勝、ここから箱根駅伝の伝統が脈々と築かれていきました。

 

また、この年の4月、30歳を迎えた金栗四三は予選を通過して代表に選出され、アントワープ五輪に派遣されています。金栗四三は、マラソンで最高5位まで順位を上げますが、途中で足を痛め最終結果は16位と悔いの残るものになりました。

 

オリンピックから帰国すると、金栗四三は東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に就職し、女性のスポーツ進出に力を入れます。

 

4年後、パリ五輪開催の年に34歳となっていた金栗四三。マラソンの第一線を退こうと考えていましたが、出場した予選会で若手有望選手が次々と脱落、なんと金栗四三が優勝してしまいオリンピック代表に選出されてしまいます。しかし出場した第8回パリ五輪では実力を発揮できずに意識を失って脱落、棄権することになりました。

 

そしてこの大会を最後に、金栗四三は選手としてのキャリアを終えることとなりました。

 

4年後の昭和3年(1928年)アムステルダム五輪においては、山田兼松が4位、津田清一郎がマラソン6位入賞を果たします。この知らせを聞き、金栗四三は感無量でした。彼の五輪挑戦は不本意な結果でしたが、道を切りひらき、後進を育てる役割は立派に果たしたといえるでしょう。

 

多くのアスリートが若い命を散らした第二次世界大戦後は、全日本毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)や、金栗の名を冠した「第一回金栗賞マラソン」(現・金栗翁マラソン大会)を開催。日本の復興を見守る金栗四三は五輪やボストンマラソンといった国際大会で活躍する日本人選手の育成にあたりました。

 

そして、その多大な功績を認められ、昭和30年(1955年)には、スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞しています。

 

55年ぶり、感動のゴールを果たした金栗四三。

 

昭和42年(1967年)、金栗四三は思い出の地であるストックホルムの地に立ちました。ストックホルム五輪の記念行事に招待されたのです。金栗四三は同大会での記録上、棄権したという意志が伝わっておらず未だゴールしてない状態でした。当時のまま残っているストックホルムのスタジアムで、私服のまま走る金栗四三。ゴールテープを切った瞬間、発表されたマラソンのタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」でした。

 

ゴールした金栗四三は「この間に妻をめとり、子が6人と孫10人ができました」と挨拶をして、観客を大いに沸かせたといいます。

 

「体力、気力、努力」をモットーに掲げ、日本のスポーツ振興に大きな功績を残した偉大なアスリート・金栗四三は、昭和58年(1983年)、享年92才で大往生を遂げました。

 

日本マラソンの父「金栗四三」×「くまモン」のコラボのミネラルウォーターが登場!

新年早々、いま話題の「金栗四三」と「くまモン」がコラボした限定ミネラルウォーターが登場します。

 

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キュートなランナー姿の「くまモン」と「金栗四三」の名前が刻まれたボトルには、全国でも有数と称される熊本の美味しい水がボトリングされています。

 

今しか手に入らない貴重なコラボウォーター、ぜひゲットしてみてくださいね♪

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熊本の食と観光をPRしたい!おるとくまもと編集部は熊本の新しい魅力を発見するために日々県内のいろんな所でいろんなモノやコトを探しています。

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