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街に溶け込む下浦石工の魂 国の重要文化財 祇園橋 

天草の中でも地方で生まれ育った私は、本渡の“街”に出かける度に、にぎやかな商店街の近くにある石の橋を眺めていました。高校生になると下宿先から学校まで、毎日石橋の袂を通って通学してましたが、それが祗園橋という名前であることすら、あまり意識していなかったと思います。それほど日常に溶け込んでいました。

橋は天草下島の中央を流れる町山口川(まちやまぐちがわ)の河口近くに架けられており、潮が満ちるとフグが遡ってくることもあります。普段から鯉もいますので、不思議な状態になります。
梅雨の時期など、大雨が続くと上流から流された木々が祗園橋に引っかかり、せき止められそうな風景をたまに見かけてはハラハラするのも恒例行事。市役所の方々が片付けにも来てくれ、なんとか百数十年持ちこたえてきました。

その価値に気づいたのは、やはり観光協会の仕事に就いてから。天草四郎陣中旗、富岡吉利支丹供養碑と並んで三つの天草の「国の重要文化財」であることを知りました。

名前の由来は、橋を渡り切った先にある「祇園神社」。そもそも「橋」は、川や谷などによって隔てられた道と道をつなぐもの。しかし祇園橋は、行き止まりになっていて、小さな社殿があるだけ。かといって参拝のためだけに作られたわけではありません。理由ははっきりしていて、初めはここより50mほど下流に掛けたが、増水により幾度も流され、岩盤が唯一露出している現在のところで落ち着いたとのこと。

さらに、公共工事ではなく、地元有志によりかけられたことが特徴的です。

資料によれば、幕末の天保三年(1832年)地元の庄屋、大谷健之助が地元の銀主に呼びかけ、庶民とともに力を合わせて完成させました。聞けばなかなかのお話。お金を稼いだ人たちが、社会貢献を果たした証ですね。落語の「鴈(がん)風呂(ぶろ)」で知りましたが、大阪の淀屋橋を淀屋辰五郎が作ったことなんか、有名なお話です。

石橋と聞くと山都町の通潤橋などに代表されるアーチ形をイメージする方も多いでしょうが、ご覧のとおり石の柱を組み合わせた多脚式で、このサイズでは国内最大らしい。
材料である天草の下浦石は良質な石材として広く使われ、産地である下浦地域には石工を多く育みました。下浦の石工は地元はもとより各地で活躍、中でも長崎のオランダ坂の石畳は偉業の一つとして語り継がれています。


ここ本渡も「天草島原の乱」の激戦地。1637年(寛永14年)、一揆勢は天草に入り、次々と寺沢方を打ち倒し、遂に本渡城にまで至った。町山口川の戦いは凄惨を極め、川は死屍累々として赤く染まったと語り継がれています。

天草は、各地に歴史的価値が高いものが暮らしに溶け込んでいる建造物等がいくつもあり、そのことに気づかない贅沢な島なのかもしれません。

 

熊本県天草市船之尾町

問い合わせ:天草市文化課 0969-32-6784

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キュレーター紹介

iwami

1964年天草生まれ、2016年まで天草宝島観光協会の事務局長を務め、地元はもとより各地奔走。おでんと日本酒をこよなく愛する自称ナイスミドル。

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