「タロージイタチ」って知ってる? 人吉球磨・芦北地方に伝わる謎のもじゃもじゃ集団⁉
【人吉球磨の伝承 其の一】人吉盆地や芦北地方に残る伝承「タロージイタチ」ってなに? イタチの仲間? それともおジイさん? 郷土史研究家の前田一洋先生にインタビュー! その謎を解き明かす!
人吉球磨の伝承タロージイタチをご存じですか?
今回、人吉市在住の郷土史家・前田一洋先生に「タロージイタチ」について教えていただきました。
前田先生、3月と言えば人吉市田野町の田野高原(通称:美晴山)でも野焼きの季節ですね。タロージイタチとは、人吉球磨の山に生息する特別なイタチなんですか?
は?イタチじゃなかたい。
漢字で書けば「タロー」は太郎。
じゃ、太郎&ジイたち?
いや、「ジイタチ」は一日(朔日)と書く。
「ツイタチ」ですか。
「ツイタチ」→「チィータチ」→「ジイタチ」みたいな感じですか?
そうたい。
「太郎一日(タロージイタチ)」は、旧暦2月1日、2022年なら3月3日頃のことたいね。
毎年この日になると、山伝い、川伝いに見たこともない人たちがゾロゾロ歩いて下るという伝承が、人吉盆地や芦北地方にあっとたいね。
そして、この日だけの禁忌がある。
例えば、「子どもは山や川に行ってはダメ」。連れていかれるから。
ひえー、人さらい⁉
子どもだけでなく、大人も外出するな。
「仕事も休んで、家にいろ。そして、外に鎌や鍬など鉄の道具類を置きっぱなしにするな。持って行かれるぞ」と言われとった。
盗賊ですか? 化け物?
いや、盗むのが目的ではなかろう。
そして、その集団が通り過ぎた数日後、今度は……
髪の毛が地面に着くほど長い人々が、山に登って行く。
ヒョーヒョー
とノド声を出しながら。
山を下りるのも登るのも、怖い集団ばかりですね。
書物によっては、「山の神と田の神が入れ替わるお祭り」と書いてあるものもあるね。
この旧暦2月1日に、真言宗の寺から魔よけとして、「牛頭天王」のお札をもらって来る習わしがあったもんね。
また「しらだご」を作って、「ごっどん」のお札や屋敷の神様に供える。
「しらだご」って何ですか?
米粉で作った団子たいね。
ああ、昔は白米が珍しかったんですね。貴重なものだから、「ごっどん」に供える……
ハッ!
「ごっどん」はGOD?
いやいや、「牛頭天王」がなまって、「ごず+どん」だろうね。
「牛頭天王」はスサノオノミコトの化身とも言われておるね。
私は釣りに行くとばってんね、
旧暦2月1日頃は、海藻(ワカメ・ヒジキ)が一番成長する頃たいね。
桜の花が咲く頃、根がカタマリ(根こぎ)になって、釣り糸にひっかかって困るもんねー。
いきなり先生の趣味の話……💦
まあ、最後まで聞きなっせ。
福岡県北九州市の門司に、「和布刈神社」というのがある。
関門海峡に面した神社で、12月31日に新芽の和布を供える風習があるそうだもんね。
その和布は、3か月後の旧暦2月1日頃には、最高に成長期を迎えるらしい。
釣り糸にひっかかるくらい、どんどん伸びている。食べても一番おいしい季節なんだよ。
つまり、その時期を狙って海藻を採りに行くために、山から下りていたんじゃなかとかな。
これは俺の考えだけどね。
山を下りて、食料調達に行っていたんですね!
たぶんね。
その海藻自体が食料になるし、干したら海藻に塩がびっしり付いている。これを藻塩と言う。
藤原定家の歌に「焼くや藻塩の身もこがれつつ」と出てきますが、あれですか。
そう、後世には海藻を干した後、焼いて作った藻塩もあったので、「藻塩」は「焼く」という言葉とセットで和歌などに使われた。
でも「太郎一日」の藻塩は、干した海藻に白く浮き出た塩のことだ。
その海藻でイノシシやウサギの肉をくるくる巻いて貯蔵したら、塩漬けの保存食にもなるしね。
とにかく塩や海藻は必要だった。
そして、長く成長した海藻を担ぐと、ちょうど黒髪が地面まで伸びているように見えるはずだもんね。
じゃ、「山の神と田の神が交替する」んじゃなくて、同じ人たちが山から下る時は手ぶらで、登る時は海藻をたくさん担いでいるだけってことですね。
でも、そもそも山を下りる時の、「見たこともない人たち」というのはどういう意味でしょう?
「太郎一日」の伝承はね、人吉盆地や芦北には残っているが、標高の高い田野町にはない。
つまり、海から遠く離れていて、自分たちで塩を確保しなければならない人々が、年に一度、海辺まで移動して海藻を採っていたと考えられる。
だから、平地の人たちは「見たこともない人たちが山から下りて来た」と感じたんだろうね。
現代でも塩は、1日に約7g必要。当時は肉体労働が多いから、もっと塩分を必要としたはずなんだ。
すごい量の塩が必要だね。でも、コンビニもなーんも無い(笑)。
それで自分たちで海まで行って、塩を調達しなければならなかった。
当時って、いつ頃ですか?
旧石器時代から縄文時代、弥生時代初期だね。
えっ、旧石器時代って400万年前~20万年前? そんな大昔の話なんですか( ゚Д゚)⁉
球磨村の高沢鍾乳洞内にも遺跡があって、焚火の跡や土器・石器と一緒に、牡蠣やハマグリの貝殻が出土している。
牡蠣なんて手のひらより大きくて、ノートみたいだ。洞窟で焼いて食べたんだろうね。
もちろん海辺でも貝を焼いて食べている。
「ああ、うまい。これを山にいる子どもや年寄りにも食べさせてやりたい!」
と、重いのに海藻と共に担いで、持って帰ったんだよ。
家族のために、海藻やら貝やら大荷物を担いで、命がけで峠を越えて行ったんですね(うるうる)😢
怖いイメージだったけど、急に「家族思いの、心優しい人たち」って感じ始めましたよ。
田野高原は標高が高くて寒い。稲作が始まった弥生時代以降、人が住んだ痕跡がないんだ。江戸時代に移住して来るまではね。日本で製鉄が始まったのが弥生時代初期だから、「鉄の道具を取られる」という伝承はその頃からだろうね。
鎌倉時代になると塩田が開発されて、“塩”として運んでいたので、もう、わざわざ海まで藻塩を採りに行く必要がなくなった。
しかし長い歴史の中で繰り返し行われて来た年中行事であったため、「太郎一日」は、少しずつ変形しながらも人々の心の中に残ったんだろうね。
弥生時代って、紀元前10世紀ごろから?「この日には外に出てはならぬ」という禁忌だけが、何千年も人吉球磨地方に伝承されて来たなんて、すごいですね!
よく考えたら、自分たちが食べるだけで精いっぱいの人たちが、平地の子を誘拐したりしませんよね。
たぶん「見たこともない人たち」を見て好奇心にかられた子どもたちが後を追って行って、迷子になったんじゃないでしょうか。
ま、鍬は「見っけ♪」と持って行ったかもしれませんが。
田野高原に人が再び住み始めたのは、1770年代だね。天災が重なってひどい飢饉になった時に、相良藩が「未開拓の田野を開拓して、田んぼにしないか」と奨励して、球磨村あたりの人々が移住して来た。そこでがんばって飢饉を乗り越えた人たちがおったとたいね!
あ、先生。その話はまた、別の機会にお願いします。
前田先生の知識があふれ出して止まりませんが、今回は「タロージイタチ」の謎を解き明かすことができました。
次回は『鬼滅の刃』と刀鍛冶、片目の魚に さらわれたネギ姫様まで関係ある!?です。
乞う御期待!
[…] 前回、「タロージイタチ」の話の時に「牛頭天王(ごっどん)」のお札の話をしたね。 […]