【肥後遊記】第拾譚『肥後のふしぎなもん』日本でこの人だけ、明治時代に神となった警察官、警神・増田敬太郎(菊池市)
"明治の英雄、増田敬太郎警官の驚くべき物語!" 肥後(熊本)のふしぎなもんの仲間を求めて旅する妖怪ひ~が、地元の菊池市でもあまり知られていない増田氏の生涯を紹介。彼の勇気ある行動は、コレラ流行を食い止め、人々に希望をもたらしました。その功績は今もなお語り継がれ、神社に祀られ讃えられています。彼の生涯を通じた奮闘と犠牲に心を打たれるでしょう。
肥後(熊本)のふしぎなもんの仲間を求めて、津々浦々を旅している妖怪ひ~でございます。
今回は、明治時代に神となった警察官・増田敬太郎(1869~1895年)を妖怪ひ~が紹介します!
地元でもよく知られていない…
この増田氏をご存知の方は、地元の菊池でもなかなかいないのではないでしょうか…
私は妖怪ですが、人間の父母がおりまして、その両方が地元・佐賀県の警察関係者であったため、この増田氏の事は幼い時から知っている人でしたが、いざその方の地元に来てみたらその知名度が低いことにびっくりしました。
それでは、この増田氏がどのような方なのか。先ずは、その概要をご説明します!
菊池市生まれの天才
増田氏は、明治2(1869)年に菊池市泗水町に生まれ、数学や測量など幅広く学び、馬見原(山都町)の水路工事、北海道開拓及び泗水村での蚕業等を行う多才な人物でした。
彼は、日清戦争が開戦した翌年の明治28年(1895年)7月、佐賀県巡査教習所(現在の警察学校)に入り、通常3ヵ月かかる教習課程を10日で卒業し、同月17日に巡査に任命され、19日に佐賀県の唐津警察署に配属となりました。
その後、彼は配属先(唐津市肥前町高串地)で流行していたコレラの対応にあたり、自身もコレラに感染し7月24日に死去しました。享年25歳でした。
彼の働きもあり、徐々に猛威をふるっていたコレラは終息し、彼の死後以降に村人に感染者はでなかったといいます。
「増田敬太郎肖像画」『増田敬太郎物語』より引用
増田巡査とコレラとの戦い
当時、高串地区ではコレラに対する予防策等の知識が無く、コレラの感染者及び死者等が80人(村民400人)を超えるなど、危機的状況でした。
その中で増田巡査は、感染を恐れる住民に代わり、高串地区の住民に対して薬を与えるとともに、患者の家の周りに縄を張り巡らして消毒を施し、患者と住民の接触をなくし病人の隔離等を行いました。
しかし、既に手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけとして「患者に毒薬を飲ませているから死んだのだ。」との根拠もない噂が広まり、治療可能な患者が薬を拒否することもありました。そのような状況下でも、増田巡査は地区内の人々に根気強く誤解を解いてまわりました。
すでに亡くなった住民の遺体についても、住民がその運搬に協力を拒むこともあり、増田巡査は自ら遺体の消毒を行い、むしろで巻いて海岸から船で対岸まで運び、遺体を背負い傾斜30度の坂道を約200m上り丘の上の墓地に埋葬する活動を続けました。
このような不眠不休で行動を続けた増田巡査は、ついにコレラに感染し、4日目には目に見えて衰弱していました。その際、看病に訪れた住民に「絶対に私には近づかないように。」と言い、最後までコレラ対策の気持ちを持ち続けました。途中、村の評議員が見舞いに出向いた時には「もう回復の見込みはないと思いますが、高串のコレラは私が全部背負っていきますから、安心してください。人々には私が指導したように看病と予防を怠らずに続けるように伝えてください。」と遺言し、7月24日午後3時に25歳の若さで増田巡査は亡くなりました。
増田敬太郎生誕の地(菊池市泗水町)
増田巡査の死後
増田巡査の死後、高串地区でコレラが収まったことから、彼がコレラを収束させたと考えるとともに増田巡査の献身的な行為に心から感謝した地区の住民は、遺骨を分骨してもらい、地区で一番見晴らしの良い秋葉神社の境内に埋葬しました。
その後、秋葉神社に彼を祀る祠(後の増田神社)が作られ、コレラ除けの神として地区の人々のみならず、近隣部から参拝者も増えました。
大正時代になると佐賀県警の働きかけもあり、増田神社が作られ、増田巡査を祀る日本で唯一警察官を祀った神社になった。現在でも、増田神社秋季大祭では、白馬に乗った増田巡査の人形を乗せた山車が地区内を練り歩きます。警察音楽隊や海上警備艇もパレード参加しています。
「増田神社例大祭」唐津市HPより引用
「神様になった警察官 増田敬太郎物語」『広報きくち』より引用
その他、詳しくは以下のサイトをご覧ください。
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ちなみに…
西村明「彼の死 ―増田巡査の神格化―」によれば、増田巡査の死から2日後、コレラに罹患した2人の子供を看病していた中村幾治の許に増田巡査が夢に現れたという。
その際、増田巡査は、白シャツ姿に剣を抜いた姿であり、中村に「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ」と厳かに言って消え、中村はその後子供を懸命に看病した結果、子供2人も無事回復したというものです。また、中村のほかに同様の夢を見た住民もいたため、増田巡査の神格化が進んだとされています。
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